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オリジナル小説

夢 の 雫
作/明生



プロローグ   3−1 3−2 3−3

 ACT4  ACT5  ACT6  ACT7

ACT8  ACT9  エピローグ



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プロローグ


 小さな、小さな、光りのざわめき。


 曇天の空の下、嵐のような強風が音を立てて吹き荒
れる。それは、店先に掛けられている古めかしい看板
をカタカタと鳴らし。
 最悪の天候に身を震わせているように、古びた建造
物の店内もまた、ひっそりと静まり返っていた。まる
で、空間そのものが眠っているように。
 薄暗い室内。
 怯えた空気の漂っていたそこに、いつしか潜めいた
声が聴こえ始める。それは妖精の羽音にさえ感じる、
小さく秘めやかな神秘の《声》。
 店の扉を開けて左手の、古ぼけて目立たない棚の一
番上。そこに光りの粒子が集まり、まるで蛍のように
ポゥっと無数のきらめきを瞬かせている。
 小さな光りの粒子達が瞬き合って。その様子は、ま
るで内緒話をしているようだ。


《‥‥す‥‥、》
《‥‥くすくす‥‥‥、》


 暖かな虹色の光りは、とても楽しげに笑っているよ
うだった。その時、

《くす‥っ、》
《‥っ‥っ》

 光りの粒子達が、驚いたように狭い中で身を震わせ
る。何かが、近付いて来る。
 ゆっくりとした歩調で近付いて来る気配に、彼等が
途端に静まり返ると、賑やかな光りの粒子はスッと消
えてしまう。
「ほっほ、何をそんなに騒いでおるのだ、お前達は」
 彼等に伸ばされたのは、シワだらけの手。刻まれた
微笑みに、顔のシワも深くなり。
「おぉ、そうか。お前達も感じるのか」
 古ぼけた棚の前にやって来たのは、白い髭を蓄えた
小柄な初老の男。丸い銀縁眼鏡の向こうにある瞳は、
深いシワに埋もれ小さく見える。それでも、穏やかな
色を宿したやさしい瞳だ。
 些か長めの総白髪の髪を後ろで一つに縛り、小洒落
たカジュアルスーツに身を包んでいる容貌は、気さく
な紳士を思わせる。手に持っているアンティークな細
工のパイプ煙草は、ボウル(煙草を詰める部分)から
吸い口までが曲線的に伸びているベント系の、手入れ
の行き届いた年代物だ。
 それを銜えながら、男は棚の上に陳列されている幾
つかの小瓶の中から一つを摘み上げた。
「そろそろ、かの‥‥。この、雨が上がったら‥‥」
 そう男が呟いた時、今にも泣き出しそうだった空か
ら大粒の雨が降り出し始める。風が轟々と、天空の向
こう側でうねりを上げている。
 男は、小瓶を元の位置へ戻すと、窓の外から暗い空
を見上げた。プカリと紫煙を吐き出して。シワだらけ
の小さな瞳を、更に細めて微笑む。
 その足元では、今まで闇に隠れていた黒猫が、金色
の瞳を光らせてニャァと一声泣いた。



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ACT1


 
それは、灰色のモノクローム。
 一枚の写真のように、僕の時間は止まったままだ。


 ゆっくりと、地面に落ちる僕の体。
 僕の意思を無視したまま、
 スローモーションのように流れて行く時間。
 抗いなど無に等しく。
 悲鳴を上げたのは、体じゃなく、精神。
 精神の慟哭を無慈悲に飲み込んで。


 風が、‥‥風が、僕から離れてゆく感覚。


 残酷な運命の女神は、僕に死刑宣告を告げた。
 その瞬間、僕の時間は止まり。


 僕は‥‥‥




 僕は、夢を喪った。




 新緑薫る、午後の昼下がり。
 初夏を思わせる強い陽射しの中、それでもグラウン
ドでは、若いエネルギーを持て余しているかのように
学生達が元気に走り回っていた。その風に流れ光る汗
にさえ、青春ドラマのような輝きを感じてしまい。
 少年は一人、木陰で瞳を眇める。木の幹に寄り掛か
っている彼の容貌は、些か影が薄い印象だ。上背は同
年齢頃の平均値に達しているのに、些か華奢な体躯。
項が隠れるほどの色素の薄い後ろ髪が、更に周囲に与
える印象を儚げにしているようだ。
「‥‥‥ふん」
 銀縁眼鏡を掛け直し、小さく鼻を鳴らして踵を返し
す。その横顔には、些かの苦悶の表情が窺え。その場
を去ろうとする少年に、しかしグラウンドから声を掛
けられる。
「おい、都築!」
 その声に、少年の体が僅かに震えた。
(‥‥やれやれ。面倒な奴に見つかったな)
 内心舌を打ちながら、しかし少年は無視するように
先を急ぐ。だが思うように動かない脚に、苛立ちは隠
し切れず。
「クソ‥‥っ」
 今はもう大した痛みも伴わない脚を、引き摺るよう
に歩いている少年が、追い着かれるのに然程の時間は
要さない。
 大きな手に腕を掴まれ、少年は痛みに顔を顰めなが
ら自分を戒める不埒な輩を振り仰いだ。見上げなけれ
ば視線を合わせられない男に、苛立ちさえ覚え。
 先刻まで太陽の下、風の王のようにトラックを走り
抜けていた褐色の肌の少年。自分の白い肌とは対照的
な、健康的な体躯。
 それは少年の中の劣等感を、更に煽るものとなる。
「おい、待てよ。都‥、」
「離せよ!」
 掴んでいる腕を振り払おうと、忌々しげに腕を振り
回そうとするが、それは容易な事ではなかった。想像
以上に落ちていた筋力。自分の体を支える事すら困難
な脚。
「あ‥っ」
「都築!」
 腕を振り回した勢いに、負けたのは自分の体の方だ
った。意思に反してバランスを崩し。よろけて崩れる
体を支えたのは、拒んだ腕。
 そんな現実は、更に少年の精神を苛む。
 だが、厚意で腕を差し伸べてくれた者は、少年の中
の身につまされる劣等感に気付く気配はない。
「何も逃げる事はないだろう?みんな、お前の事を心
配してるんだぜ? せっかく来たんじゃないか。顔を
見せて行けよ」
 悪びれなく言う「かつての仲間でありライバル」に
腰に腕を回され支えられたまま、少年は口端を歪める。
 そして、形の良い唇から紡がれる言葉は、ガラスの
欠片。
「‥‥‥心配? ライバルが一人いなくなって清々し
たって顔をしている連中がか?」
「お、おい、都築!?」
「お前は、相変わらずお目出度いな」
 少年の言っている意味を測り兼ねていると言う様相
に、今度こそ、少年はその腕を振り払った。そして、
表情の抜け落ちた顔を目の前の少年に向け、氷のよう
に冷たい視線を送る。
「いい加減に離せ。無神経も程々にしないと、洒落を
通り越して犯罪だぜ、檜山」
「‥‥っ!?」
 相手を射殺してしまいそうな鋭い瞳を向けられ、知
らず緩まる腕の力。その隙を突くように、腕の中から
身を離す少年。その怒りの原因に皆目検討が付かない
と言う様相に、少年は再び背中を向けて歩き出す。
「お前は、前だけ向いて勝手に一人で走ってろ。そし
てサッサと、世界のトップランナーになっちまえよ」
「お、おい、都‥、」
「二度と、僕に構うな」
 自分を取巻く全部を拒絶するかのような背中。彼の
耳には、もう誰の言葉も届かない。全部が虚偽に塗れ
真実から掛け離れたようにさえ思え。
 痛いのは、引き摺っている脚ではない。瞳に見えな
い穴がぽっかりと空き、血を流し続けている精神だっ
た。



           *



 都築将(つづき しょう)は、幼い頃から走る事が
好きだった。中学・高校と陸上部に所属していた。

「いた」、とは。

 つまり過去形なのだ。
 高校で陸上仲間の檜山孝俊(ひやま たかとし)と
出逢い、共に全国を目指し競い合うように自己記録更
新を続けて来た二人だ。互いに認め合って来た、良き
仲間であり好敵手。
 だが、その関係も二ヶ月前に終わった。
(畜生‥‥。どうして‥、どうしてあんな‥‥‥!)
 拳が、将の脚を打つ。何度も、何度も。将にとって
意味を成さなくなった脚を、打ち続ける。だが、どん
なに体に痛みを訴えても、精神の痛みが癒える事はな
かった。
 血を流し続ける精神の隙間は、一分一秒の時間さえ
将を苦しみから解放してくれる事はない。考える思考
と言うものを、頭の中から掴み出してしまいたくなる
ほど、それは精神を苛み、壊して行く。


 いっそ、死んだ方がマシだ。


 思うよりも行動が伴わないのは、未練。だが、その
未練がまた辛いのも現実だ。
(要らない‥‥。こんな‥、こんな僕なんか、存在し
てたって意味なんかない‥‥‥!)
 拳を叩き付けられる脚。それは毎夜の儀式。精神の
痛みを、体の痛みで紛らわせようとする、自暴自棄の
行為。かつて、将を風にしてくれた誇らしい脚は、今
は重い足枷となって将を苦しめている。
「どうして‥、どうして僕が‥‥‥っ」


 どうして僕が、こんな目に。


 毎夜、‥‥いや、あの日から。刻む秒の時間だけ、
問い掛け続けた自問自答。だが、その問いに答えが返
る事は、きっと永久に来ない。それは、わかり過ぎて
いる現実だ。
「く‥‥っ」
 脚を打つ事にさえ疲れを覚え虚しさを思い知らされ
るだけだと打ちのめされる頃、将は漸く震える拳を振
り上げる事をやめる。疲労困憊の様相でベッドに身を
投げ出し、枕に顔を埋める。何度も涙で濡らした枕を、
今はもう流す涙さえ在りはしない。


 このまま、奈落の底へ堕ちてしまおうか。


 そんな思考を廻らしている将を現実世界へ引き戻し
たのは、部屋のドアをノックする音。気だるげに顔を
上げるのと、ドアの向こうから声が届くのは、ほぼ同
時だった。
「将、話があるの。下に降りてらっしゃい」
 母親の声に、将の顔から表情が抜けた。「ついに来
たか」と僅かに呟いて、将は立ち上がる。ドアを開け
る頃には、既に母親は階段を降りて行く処だった。



           *



「‥‥つまり、僕を祖父の家に厄介払いしたいと、そ
う言う事ですね」
 眼鏡のレンズの向こうの冷えた瞳が、無表情のまま
目の前に座る者を見つめる。
「し、将!被害妄想も体外にしないか!いつまで不貞
腐れた態度でいるつもりだ! お‥、お前がそうだか
ら親父が、‥‥お前のお祖父さんが面倒を見ると言っ
てくれているんじゃないか。人の厚意を、もっと素直
な気持ちで受け入れられないのか」
 十六歳の少年とは思えないほどの息子の迫力に、幾
分押され気味の父親が僅かに声を震わせながら言った。
「アレは事故だ。打ち所が悪ければ、お前は今、この
世にいなかったかもしれないんだぞ。いつまでも捻く
れて根に持っていないで、もっと前向きに、」
「そうですね」
 父親の言葉を、静かに攫う。
「貴方が事故の示談金を返上し、銀座と赤坂と築地の
女性と縁を切られるのなら、前向きにならない事も無
いですよ。貴方も良い加減に色欲から解脱して、世間
一般の《父親》になるのならね」
「し‥っ」
 親を親とも見ない息子の物言いに、父親の顔が憤怒
の表情で紅潮する。
「将!」
「あらあら、図星を指されてしまいましたわね。事実
を言われると怒るって本当ですのね、あなた」
 今までは、夫の浮気に我関せずだった息子の静かな
反撃に、妻は愉快そうに嘲う。その妻の言葉に、夫は
振り上げた拳を収めるしかなかった。此処で息子を殴
ってしまったら、それこそ浮気を肯定しているように
思えたからだ。
 だが、息子の毒舌はそこで終わりやしなかった。
 危うい足取りでリビングのソファーから立ち上がり、
退室する際の母親との擦れ違い様。
「貴女も、人の事は言えないでしょう?」
 囁かれた言葉に、母親の表情が凍る。それは、生ま
れて初めての息子の反逆であった。
 気まずい空気の流れる部屋から出て行こうとドアノ
ブに手を掛ける際、将は憮然としている両親を振り返
る。
「お祖父さんの処へ行きますよ。少なくとも、此処に
いるよりも環境は良さそうだ。学校の方へは、休学届
でも転校届でも退学届でも、どうとでも理由を付けて
出して置いて良いですから。脚の事で逃げているよう
に見られるのが厭でしたが、これで学校に行かない大
義名分も出来ると言うものです」
 最後の言葉は、些か自虐的に呟いて。そうして将は
リビングを後にした。



           *



 翌日、将は早朝に家を出て駅へ向かう。駅までは、
タクシーを使った。朝六時と言う時間帯の所為か、思
うより道路もホームも空いていた。
 松葉杖は要さなくなったものの、今の将の脚では椅
子に座れないと辛い。それを見越しての早出だったの
だ。また、両親と顔を合わせたくはないと言う現実が
あるのも事実だ。
(お祖父さんの家、か。‥‥何年振りだろうな)
 時刻表で、程なく電車がやって来る事を確認する。
故に、そのままホームに立っていると、見覚えのある
シルエットが視界に入った。
(‥‥‥あぁ。早朝練習のコースだったな、そう言え
ば)
 かつては、自分も一緒に走った道。その道を今、一
人の少年が走って来る。
(フォーム、直したらしいな。‥‥うん、その方が良
い。その方が、スピードに乗る筈だ)
 漠然と考え、苦笑する。自分は今、他人の心配をし
ている場合ではないだろう、と。
 そのまま通り過ぎるのを、何気に見つめる。僅かに
小高い駅のホームから見降ろせる、線路沿いの車の通
りの少ない道。かつての自分の姿を重ね、憧憬の念に
駆られる。
 だが、こちらから見えると言う事は、相手にも見え
ると言う事なのだ。二人の視線がかち合うのに、時間
は要さない。彼は、すぐに将を見つけた。
「都築?」
 その場で足踏みしながら将を見上げて来る少年に、
将は静かに息を吐いた。
(あぁ、そうだった。檜山は視力も良いんだ)
 裸眼で0.1もない将にして見れば、羨ましい限り
の視力の持ち主だ。
「何やってんだよ、お前!?」
 線路を挟んだ向こうから声が掛けられる。早朝で人
通りもない場所で、その声は近所迷惑になりそうなほ
ど響き渡り、将を閉口させた。
 チラリと窺う線路の先。そろそろ、電車が滑り込ん
できそうな気配である。駅の構内アナウンスも、電車
の案内を始めた。将は、改めて檜山に視線を戻す。
「何処かへ行くのか?」
 再度問い掛けられ。ホームに吹き込む風に髪を舞い
上げられながら将は眼鏡を外し、ぼやけた視界の中に
檜山の健康的な脚を映す。
 それはもう二度と、どんなに将が欲しても得る事は
ない未来ある脚。
「決まってるだろう。この町を出て行くんだよ」
「何?」
 檜山の表情が一変し、足踏みが止まる。踏み切りが
鳴り始める。その音に掻き消されそうになりながら、
将は続けた。
「この町を出て行けば、お前が元気に走っている姿を
見ないですむからな」
「お、おい!?」
「お前は、‥‥お前は、前だけ向いていれば良い」
「都築!?」
 驚愕に見開かれる檜山の瞳は、ホームに滑り込んで
来る車両が遮断する。将は荷物を持って電車に乗り込
んだ。思った通り、車内は人も疎らに空いていた。
 敢えて檜山に背を向ける形で、将は座席に座る。
「都築!」
 檜山の声は、閉まるドアと発車ベルに掻き消され。
ゆっくりと動き始める電車に、将は瞼を閉じる。張り
詰めていた胸の中に、何処かホッとしている自分がい
た。
 スピードに乗り出す車両の窓に、もう良いだろうと
視線を向けて、驚き、呆れる。
(‥‥馬鹿か、あいつは)
 呆れ返る将の視線の先には、懸命に電車を追い駆け
ている檜山の姿が在った。
(馬鹿‥、かも。馬鹿、だな。うん、やっぱり馬鹿だ)
 どんどん小さくなって行く檜山の姿。そのシルエッ
トは遂に地面に沈み、将に「檜山がコケた」と告げて
くれる。
(‥‥後で、アイツの家に電話しとくか。お袋さんの
パートは十時からだから、乗り換えの時に掛ければ充
分だな)
 自覚もないままに、転んだ檜山の脚の事を心配する
将。憎まれ口の毒舌を疲労しつつも、それでも檜山の
事は気に掛かるのだ。


 仲間だから、心配になる。
 仲間だから、仲間でなくなった事も辛く。同じ夢か
ら置いて行かれたような、一人取り残されてしまった
ような孤独感に襲われる。
 何より。
 やはり、仲間で、近しい存在だからこそ、妬ましさ
も膨れ上がり、八つ当たりの対象にもなってしまうの
だ。


(もう、‥‥もう、住む世界が違うんだ)
 そうして将は、一人迷う。まるで母親と逸れてしま
った小さな子供のように、世界中の恐怖が自分に襲い
掛かって来るような不安を抱えたまま。
 一人、この町を去って行く。
 それは、旅立ちなどではない。


 たった一人の、現実からの逃避行だ。


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ACT2

 今にも泣き出しそうだな。
 厚い雲の重く伸し掛かる空を見上げながら、将は近
代化してしまったホームに降り立ち一人呟く。下り電
車の閑散とした車内と違い、上り電車はベッドタウン
から都心へ向かう通勤・通学のラッシュタイム。想像
以上に喧騒な空気に、静かに吐息した。
 惚けていると人にぶつかり波に押し流されそうにな
り、不自由な脚で人込みから抜け出しながら、やっと
の思いで改札の外へ向かう。
 自動改札機を通りながら、将の表情は複雑そうだ。
淋しげに再度息を吐いて、駅ビルのエスカレーターを
利用して外に出る。
(‥‥匂いが、しない)
 第一印象は、それだった。
 駅前のバスターミナルから大通り沿いの大開発は、
既に昔の面影など微塵も残してはいない。完全に都会
化してしまっている様相に、記憶の中の素朴な田舎風
景を思い浮かべる将から、落胆の色は隠し切れない。
(僕を、初めて《風》にしてくれた匂いが‥‥‥)
 将は家庭の事情で、幼い頃を祖父母の元で過ごして
いた。小学校の入学を期に両親に引き取られたものの、
学校が休みの時には必ずと言って良いほど訪れていた
この町は、将にとっては第二の故郷とも呼べる場所だ
ったのだ。
 だが中学に入る頃には陸上に目覚め、脇目も振らず
部活動にのめり込む日々を送り。いつしか将にとって、
この町は思い出の片隅へと押しやられて行った。
(たかが四年。されど、四年か。‥‥文明と言うもの
は、時として残酷なものだったんだな)
 たった今、自分が出てきた町の排気ガス諸々に汚染
された空気と同じものを此処でも感じながら、将はゆ
っくりと歩き始めた。まるで、将の知ってる「何か」
を探し求めるように。



 都心のマンモスステーションまで、急行を捕まえれ
ば片道一時間半で出られる郊外。長く続くアスファル
トの道は、開発の進んでいる証し。駅のホームから見
渡せた田園風景は、今や高層ビルの杜。
 それでも大通りを外れ二十分も歩けば、些か閑散と
した住宅街に入り込む。
「それにしても‥‥、辛い!」
 額に汗を浮かべ銀縁眼鏡を鼻からズリ落としそうに
なりながら、急な坂道の途中で柄にもなく叫ぶ将。現
役で走っていた頃ならまだしも、あの事故から二ヶ月
が経過しているのだ。リハビリの成果で、漸く松葉杖
から解放されたばかりの将にとって、坂道の上り下り
は流石に堪えるものがある。
「くっそおぉぉぉ‥‥‥」
 些か品の無い掛け声で勢いを付けながら、漸く坂の
上に辿り着き。見渡せば、遥かな下界。山を切り崩し
て作った街並みを、高台から見渡せる壮快感は格別の
ものだ。
「あぁ‥、良い風だ」
 地上から吹き上がる風に色素の薄い髪を舞い上げら
れながら、将は静かに呼吸する。懐かしい匂いが風に
乗り、時を越えて運ばれて来るような気がした
 この風に逢いたくて、不自由な脚を引き摺ってまで
わざわざ此処まで来たのだ。此処に来れば、《何か》
を見つけられると、そう思った。だが‥‥
 見上げれば、曇天の空の下に聳え立つ住宅街。寂れ
たバスの停留所の利用者は減る一方なのか。バス停に
は、壊れ掛けた木のベンチが淋しげに佇んでいるだけ
だ。最早、あの頃の面影はない。
 似ているけれど、この風は違う。そんな落胆の思い
に、将の気持ちが項垂れる。それでも、此処で一人落
ち込んでいても、どうしようもないのも現実だ。
「‥‥まぁ、どんなでも椅子は椅子だ」
 座れそうなら休んで行こうと、バス停に向かおうと
した、その時だ。
(え‥?)
 一陣の突風が吹き荒れた。風は、将の体を包み込む
ように纏わり付き。それは、ふわりと誰かに抱き締め
られたような感覚。心地好い安堵感に包まれて、思わ
ず現状を把握出来なくなるほど。
 そうして、まるで風に攫われる風船のように、将の
体が風の中に舞い上がる。
(な、なんだ‥‥!?)


 夢のような出来事に、だが、将が事態を把握し混乱
に陥る前に、風の中でふっつりと、意識は途絶える。
 そして将は、風の中に掻き消えた。



           *



 頬に当たる冷たいものに、ぼんやりと思う。
 雨だ、と。
「‥あ、れ‥‥? 此処は‥‥、」
 気付いた時には、将は地面の上に立っていた。狐に
でも包まれたかのように、靄の掛かる漠然とした思考。
 自分は確か、風に攫われたかのような感覚に陥りは
しなかったか。
 片手で顔を覆いながら、焦点の合わない瞳で周囲を
見つめる。すると、降り頻る雨の中に細い一筋の光り
が見えた。まるで、何かに呼ばれているような感覚。
見えない糸に手繰り寄せられるように、将の足は光り
の筋に向かって歩き出す。
 そうして、それは一軒の古めかしい家の中へと吸い
込まれて行った。
 風に揺れ雨に濡れそぼる古びた看板には、《アンテ
ィーク夢庵》と掠れた文字が刻まれている。
(ゆめ‥いおり‥‥? ゆめ‥、あん、むあん?)
 ぼんやりとした感覚の抜けぬまま、看板の読み方を
考えていると、薄暗い店内の片隅がまるで蛍の光りの
ように瞬いている事に気付く。先刻の光りの筋の事を
思い出し、将は扉の窓から中を覗き込んだ。
 人の気配はない。いや、それよりも営業しているの
かと、店員を捜すが見当たらず。
 だが、扉には「OPEN」の札がぶら下がっている。
(どうやら、営業はしているのか)
 降り頻る雨は勢いを増すばかり。店の軒先で雨を凌
いでいるものの、余りの雨と風に、それは意味を成し
ていないようにさえ思え。また、店の片隅で瞬いてい
る物の正体も気に掛かる所だ。
(‥‥入ってみるか?)
 躊躇いがちに考え込んでいると、まるで将を誘うよ
うに光りの瞬きが早くなる。早くこっちへおいでと、
そう言われているようだった。
 将は、そっとドアノブに手を掛けた。鍵は掛かって
いない。ギギィと軋む音をさせる扉に些かの焦りを感
じながら、将は顔だけ中に入れる。古びて埃だらけの
ような印象のある店内は、だが掃除が行き届いている
のか埃の匂いはしなかった。代わりに、古びた、遥か
な時の向こう側の匂いをさせている。
 懐かしいイメージだと、根拠のない印象を受ける。
 遥かな記憶をくすぐる空間。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
 取り敢えず、声を掛けてみる。だが、返事はない。
 将は扉の隙間から体を滑り込ませ、再び扉を閉じた。
ホッと息の吐ける乾いた空気。外が蒸し暑かったのだ
と、今更のように感じる。
「お店の中を、少々見せて下さい」
 将以外の、誰もいない空間に話し掛ける。例え応え
がなくとも不法侵入じゃないぞと、将は自分で自分に
言い聞かせた。そして店の左手の棚に、ゆっくりと近
付いて行く。そこは、まさに蛍火の幻影のように、小
さな光りを幾つも散りばめ瞬いていた。
 滅多な事では動じない将の瞳が、僅かに見開かれる。
不思議な光りに、知らず魅入られていた。
(あ‥、)
 手を伸ばし掛けて、ふと止まる。濡れている手で触
れてはいけないと、将はズボンのポケットからハンカ
チを取り出した。ついでに、雨の雫の付いている眼鏡
のレンズも拭きいてから、改めて瞬き光るそれらを見
つめる。
 だが、それらの光りの粒子達は、既に為りを潜めて
いた。今はもう何処を見回しても、あの光りのイリュ
ージョンは見つからない。
「一体‥‥?」
 まるで夢現つの泡沫を見せられていたような面持ち
の将に、だが、その瞳に現実が飛び込んで来る。
「‥‥十円?」
 値札と思しきソレは、蛍火の正体らしき物に付いて
いる。先刻まで光っていたそこには今、七つの小瓶が
並んでいる。掌にすっぽりと納まってしまう程のサイ
ズの瓶の中に、それぞれ石が一つずつ入っている。石
の色は、虹色の七つのカラーをそれぞれ持ち合わせて
いる。十円の値札が付いていたのは、透明の水晶。恐
らく、これが虹色の「白」だ。
(白? ‥‥や、虹に白色はない筈だが、)
 僅かな疑問は、だが目の前の現実味のある数字への
疑問に負ける。
「十円と言うのも凄いが、最高金額が赤い石の十万円
と言うのも驚きだな。このゼロ四つの違いは、一体何
なんだ」
 値札の謎を、思わず腕を組んで考えてしまう将であ
る。本物の宝石に十円と言う値段が付かないのと同じ
くらい、イミテーションに十万と言う値段も付かない
ものだ。
(白が十円、橙が五百円、翠が千円、黄色が五千円、
紫が一万円、青が五万円、赤が十万円‥‥。一体どん
な法則で付けた値札なんだ)
 どんなに考えても、納得の行かない将だった。
 その時、足元に擦り寄ってくる者に気付く。
(気配なんて感じなかったのに‥‥)
 猫だからかな。
 そんな事を思いながら、脚に擦り寄って来た黒猫に
手を伸ばし抱き上げた。柔らかなビロードの毛皮と心
地好い温もりに、知らず顔が綻ぶ。
「お前が此処の店番をしていたのか?」
 問い掛ける声音すら、自分でも驚くほどにやさしい
もの。黒猫は、将のそんな問い掛けに応えるように、
ニャアと一声鳴いた。嘗められた頬に切なさが募り、
久しく人の温もりと接していなかったのだと、将は実
感する。
(‥‥まぁ、元々スキンシップの類は苦手だ)
 それでも、妙に他人とのスキンシップが好きだった
部活仲間の事を思い出す。
(あれは、檜山が人とコミュニケーションを図る手段
でもあったからな。本人に自覚はないだろうけど)
 人付き合いが苦手で、いつも先輩に睨まれていた将
と違い、檜山は先輩後輩の壁さえ取り払い、人間関係
を旨く築ける奴だった。
 そんな檜山は将にさえ、暇を見付けては良く構いに
やって来たものだ。エネルギーを消耗させた部活帰り、
背後から無遠慮に首に齧り付かれ、幾度となく引っ張
り込まれたラーメン屋やハンバーガーショップ。唯一
将を、部活動と言う狭い人間関係の輪に繋ぎ止めて置
いてくれた奴だった。
(前だけ向いて走っていれば良いのに。第一、個人競
技の陸上にコミュニケーションなんかいるもんか)
 すんなりと伸びた眉が、切なげに眇められる。将だ
って、檜山に構われるのは決して嫌いではなかったの
だ。良き仲間であり、ライバルであり、唯一、傍にい
る事を由とした人間だった。
 だが、その均衡が崩れてしまった現在、どう接して
良いのかわからないのも、また事実だ。
 猫を抱き締めたまま暗い表情になって行く将の、鼻
の頭に黒猫の肉球が押し付けられ。思わず将は苦笑し
た。
 そして改めて気付く、人の気配。一体、いつの間に
いたのか。将の傍らでプカリと、呑気に紫煙が吐き出
され。
(え‥?)
 慌てて振り向いた将の視線の先には、ほっこり顔の
気の良さそうな老人がパイプ煙草を銜えて佇んでいる。
「やぁ、可愛いお客さん。いらっしゃい」
 チェリーブランデーの仄かな芳り漂う煙草の煙に、
将は一瞬の眩暈を覚える。それは決して不快なものな
どではなく、まるで夢の世界へ誘われているような、
そんな錯覚を覚えるもの。
(しかし、可愛いとは失敬な)
 元々、女顔の自分の顔が気に入らない将だった。こ
の顔で損をした事はあっても、得をした事など一度と
してない現実も手伝って、この店の主らしい老人の形
容に、些か閉口する。
(今回の件だって、結局は‥‥‥)
 思い出した途端、将のポーカーフェイスにやるせな
さ気な色が浮かび。
(‥‥いや。この人の年齢を察すれば、孫の世代にも
なる僕に対して、その形容は至極当たり前のものだ)
 緩く首を振り思い直す将に、老人のほっこりとした
穏やかな微笑が思慮深いものになる。
「おぉ、これはすまぬの。もう、君はそんな風に言わ
れる年頃ではないか」
「いえ、僕の方こそ失礼しました。僕の年齢ではまだ、
そう言われてもおかしくはないのに」
 年齢不相応な応えを返す将に、老人は目尻のシワを
深くしながら穏やかな視線を向けた。
「雨足が早うなって来たのう」
「実は、僕は雨宿りを兼ねた客です」
「ほっほっ。なあに、かまわんよ」
 スミマセンと悪びれずに本当の事を告げる将に、老
人もまた気を悪くした風でもなく笑う。
「雨に濡れて体が冷えてしまったろう。おいで。温か
いお茶を入れてあげよう」
 手招きをしながら店の奥へ向かう老人に、将もまた
後に続く。将は、元来警戒心の性格にも拘らず、この
状況を違和感なく受け入れている。その事を頭の片隅
で不思議に思いながら、それでも将はこの空間を居心
地の良いものと感じていた。



           *



 ふんわりと甘く芳るそれは、甘酸っぱい林檎を連想
させた。
「さぁ、お上がり。体が温まる」
「ありがとうございます」
 差し出されたティーカップから芳る物にに、将は穏
やかに表情を綻ばせた。
「‥‥カモミールティーですか」
 カモミールの、「大地の林檎」とも呼ばれるハーブ
ティーだ。仄かな林檎の芳りを漂わせるそれは、体を
温めリラックスさせる効能がある。
 だが、将にとってはそれだけではない。カモミール
ティーは、祖父母の元で暮らしていた幼い頃の記憶を
思い出させるものだった。
「クシャミをすると、心配性の祖母に良く飲ませられ
ました」
 懐かしげに微笑んでカップに口を付ける将に、老人
もまた顔に刻まれたシワを深くする。パイプ煙草を美
味しそうに一口吸い、プカリと紫煙を吐き出して将を
見つめる瞳は、限りなく穏やかだ。
 足元に擦り寄る黒猫も、カモミールの芳りに酔うよ
うに、喉をごろごろと鳴らしている。
 テーブルの上にはカモミールを入れたポットと、テ
ィーカップが2セット。そして、手作りと思しきバウ
ンドケーキが乗っていた。ラム酒を効かせた木の実の
バウンドケーキを器用に切り分け皿に盛り、将に勧め
てくれる。甘いものが得意でない将も、無理なく食べ
られる大人の味のケーキだ。
「‥‥美味しい。これは、おじいさんが?」
「あぁ、老人の手慰み程度に作っておるよ。気に入っ
たのなら、後で包んであげようかの。わし一人では、
いつも片付けるのに苦労する」
 笑いながら「レシピも教えてあげよう」と言う老人
に、だが将は緩く首を横に振った。
「僕もきっと、作っても片付けるのに苦労しますから」
 些か淋しげな瞳で呟く将に、老人は眼差しを深くし
てパイプ煙草を吸う。
「では、この老いぼれとまた、お茶を飲んでくれるか
のう」
「えぇ、喜んで」
 老人の申し出に躊躇う事なく頷いて。
 暫くの間、二人は激しくなる雨音の中、50年代の
ジャズソング「Fly Me To The Moon」に耳を傾けなが
ら、他愛もない世間話を気負いなく口ずさんだ。
 ゆったりと流れる時間。まるで、此処だけが現実か
ら取り残されたかのような空間の居心地の良さに、将
は何故自分が此処にいるのかと言う事さえ、どうでも
良くなって行く。
 だが、夢はいつかは覚めるものなのだ。
「ところで将君、」
 ポットの中のカモミールティーがなくなる頃、老人
が言った。
「君は、ソレが余程気に入ったようだの」
「え?」
 言われて初めて気付く。将のカップの傍に置かれて
いる、先刻の小瓶に。
(あれ‥? 僕が持って来ていたのか?)
 クリスタルの石の入った小さな小瓶。だが将は、そ
れを手に取った記憶さえなかった。手に取る前に値札
に疑問を持ち、老人に声を掛けられたのだから。
「‥‥おじいさん、この小瓶は一体、」
「その瓶の中にはの、魔法の石が入っておる」
 プカリと紫煙を吐き出しながら、老人が続ける。
「虹色の魔法の石は、夢の石。その石一つで、一人分
の夢を叶えてくれる」
「一人分?」
 曖昧な老人の説明に小首を傾げる将。だが、そんな
夢物語のような話を、今の将は笑い飛ばす気すらない。
「赤い石には、赤い石の価値に見合うだけの夢を。青
い石には、青い石の価値に見合うだけの夢を。その石
の持ち主は、石に願う事が出来る。そして石は、必ず
持ち主の夢を叶えねばならぬのじゃ」
 老人の言葉に、将の面にいつものリアリストの表情
が浮かぶ。先刻までの夢見心地は終わりなのだと、無
意識の内に将自身も感じ取っているのだ。
「では、十円分なら十円の価値に見合うだけの夢、で
すか?」
「まぁ、そう言う事かの」
 人の食えない表情で、飄々と言う老人に、将もまた
無表情で返した。
「もしソレが本当の話なら、僕は白い石ではなく、せ
めて翠の石を選びますが、」
 翠の石の値段は千円だ。ジョークでも本気でも、手
頃な金額ではある。そんな将の言葉に、だが否定する
ような音が割って入る。
 まるで硝子が小さな悲鳴をあげるような、哀しく切
なげに慟哭を上げているような、そんな音だ。


《他の者を選ばないで》


 そう言われているようで、将は手元の小瓶を見つめ
た。クリスタルの石が、まるで泣いているように潤ん
でさえ見え。小瓶が将に擦り寄って来そうな錯覚にま
で襲われそうになる。
「どうやら気に入ったのは将君ではなく、石が君を気
に入ったようじゃの」
 愉快げに笑いながら呟く老人に、将が迷惑そうに顔
を顰め深い溜息を吐く。余り嬉しくはありません、と。
「石が君を選び慕うておるなら、御代は頂けんな」
「いえ、それはそれ、これはこれですから」
 それに、たかが十円。借りを作る事の好きではない
将がポケットから財布を取り出す。
「ふむ。タダより高いもんはない、か。それなら、税
込み十円じゃ」
 十円に消費税の5%は関係ないと思うが、と将が胸
の内で呟くが、赤い石なら十万円だから税込み税別の
差は大きいかと思い直し。
 テーブルの上に置かれた十円に、老人は瞳を細めて
白い顎鬚を撫でた。
 丁度、雨が上がり。老人はバウンドケーキを入れた
紙袋を渡してくれる。
「また、いつでもおいで」
「ありがとうございます」
 小瓶と紙袋を手にする将を、老人が店の外にまで見
送ってくれる。雨上がりの青い空が、幻想的な雲と光
りのコントラストを作り出している。そして、
「うわ‥‥、」
 将が、感嘆の溜息を上げた。それは驚愕と入り混じ
ったもので。
「こんな事って、」
「雨上がりの虹くらい、珍しくもなかろう」
「でも、まさか、こんな‥‥」
 将は虹を見上げる。真っ直ぐに、真上を見上げる。
何故なら、その七色の虹は《アンティーク夢庵》の店
先から天に向かってそそり昇っていたのだから。
 虹はプリズムのよる光りの屈折で起こる現象だ。故
に、どんなに虹を追い駆けても、掴まえる事も、その
端に辿り着く事さえ出来ないのだ。それなのに何故、
此処に虹の端があるのか。
 余りの驚愕に我を忘れている将に、老人はただ穏や
かな微笑を浮かべるだけだ。黒猫は興味なさ気に欠伸
を一つ。そうして、一陣の風が将を襲う。
「うわっ!?」
 それは将の髪を舞い上げ、視界を奪った。
 老人の声が耳に届く。


「また、逢おうの。将君」


 それを最後に、将の意識が再び途絶える。



           *



 気付いた時には、将は先刻のバス停の椅子に座って
いた。ぼんやりとした頭で周囲を見回す。何処にでも
ある普通の日常の風景。雨が降った跡すらない。
 夢かと、そう思った時、手の中にある紙袋に瞳を見
張る。
「‥‥夢じゃ、ない?」
 ラム酒の芳る木の実のバウンドケーキ。それは確か
に、あのアンティークショップで食べた物だった。そ
してもう一つ、将に存在を主張するように、小瓶がチ
カリと光る。
「夢の小瓶、か。‥‥十円分の夢、ねぇ」
 苦笑を隠し切れない将の微笑に、小瓶の中で石が、
拗ねるようにクルリと回り。
 その時、クラクションが鳴り響く。バスかと思い、
慌てて立ち上がる将の視界に入ったのは、
「おい、将!」
「‥‥おじいさん」
 それは、将を迎えに来た祖父の車だった。

     2003年4月21日 to be continued

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ACT3−1

 昔ながらの平屋建て。木造建築のそれは、築百年と
言われる物々しさ。それでも、「ゆとり」と言うもの
を感じられる懐かしい日本家屋の風情は、安堵感を誘
うものがある。
 落日と共にホッと灯された居間の明かりが、闇夜の
中にやさしく浮かび上がる。

《良く来たわね、将さん》

 数年振りにやって来た孫息子を、祖母・紗江子が穏
やかに微笑んで迎える。顔を会わせたのは、将の事故
以来。経過を案じていた紗江子も、思うより元気そう
な様相に胸を撫で下ろす心境だった。
 痛々しげに引き摺る脚さえ見なければ。
「今日は学校をお休みするって言っていたから、もっ
と早く来るかと思っていたのよ。お祖父さんも心配し
て、車で捜しに行ってしまって」
 食事を終えた将の為にお茶を淹れてやりながら微笑
ましげに告げる紗江子の傍らでは、祖父・将次が大き
な咳払いをして妻を一睨みする。余計な事は言わなく
て良いと無言の圧力を掛けるが、しかし紗江子は何処
吹く風で、ころころと笑って夫の前にも湯飲みを置い
た。
 そんな祖父母を見つめながら、将は比べていた。彼
らの息子夫婦でもある、自分の両親の姿を。
 冷え切った家庭に、こんな穏やかな団欒の灯火が燈
った事など、一度としてなかった。
(いつも穏やかに夫を陰で支え続けた妻と、厳粛で曲
がった事の嫌いな頭の固い関白亭主。‥‥それでも、
二人とも人を思いやる気持ちを知っている人達だ)
 嘘偽りない笑顔で将を迎え入れ、将の好物ばかりを
食卓に並べてくれた紗江子。久し振りのあたたかな食
卓は、棘だらけで頑なだった将の心に癒しをくれた。
 自分の気持ちを相手に伝える事の不器用さは天下一
品な頑固親父の将次は、幼い頃から将に不器用な愛情
を注いでくれていた。
(偏っていると言えば、偏った愛情だったかな。ボク
に、今でも忘れられない記憶をくれたし)
 フンと鼻を鳴らして、淹れ立ての緑茶を啜る。
(まぁ、確かにボクは女顔だけどね)
 細面な輪郭にスッと伸びた鼻筋。長い睫に日焼けの
し辛い白い肌は、将を中性的なイメージに仕立て上げ
ている。その事を気にしていたのは、将本人だけでは
なかった。
 幼い頃に聞いてしまった祖父母の会話は、今も将の
頭の片隅に残っている。
「今日は疲れたでしょう? 先にお風呂をお上がりな
さい。今夜はゆっくり休んで、明日は近所を散策すれ
ばいいわ」
 何気ない祖母の気遣いに短い返事で頷いて、将は卓
袱台から立ち上がる。少し見ただけで随分変わってま
したよと、胸の内で呟いて。



           *



《おい、将!》


 悪夢のような現実から逃げ出したかった自分。走れ
なくなった自分を、見るのも厭だった。現実を目の当
たりにするのが、怖かった。嘘でも良いから、「まだ
大丈夫だ」と、そう思いたかった。
 そんな自分の想いが迷い込んでしまったかのような
現実の筈なのに、不確かな時間。
 自分の心を見透かしているような風にさらわれ、辿
り着いた《居心地の良い場所》から、再び風に乗って
戻った《本来の現実》。
 それでも違和感の残ったタイムラグから、将を現実
に引き戻したのは、祖父が自分を呼ぶ声だった。

《こんな場所で何をやっとる。遊んでないで、早く乗
れ。それとも、四年振りで迷ったか》

 ぶっきら棒な物言いなれど悪びれず、心配している
様子の窺えた祖父が、呆然としている将の腕を引き、
車の助手席へ押し込んだ。そのまま「祖母さんが待っ
ている」と、早々に家に連れて帰られてしまったので
ある。
(‥‥不思議な感覚だな。でも、‥‥あれは現実だっ
た筈だ)
 湯気の芳りをさせ、タオルで髪を拭きながら机の椅
子に腰掛ける。此処は幼い頃、将に割り当てられた子
供部屋だった。最後に訪れたのは四年前。何処までも
和風気質な家庭にベッドと言うものはない。
 今夜は紗江子が気を利かせ、布団を敷いて置いてく
れていた。不便になってしまった将の脚を気遣ってく
れている事は、将にも充分過ぎるほどわかっている事
だ。
(‥‥たった四年。変わったのは、この町だけじゃな
い。ボクも、変わった。‥‥お祖父さんもお祖母さん
も、‥‥随分小さくなったような気がする)
 それは、将の体が大きくなったからだけではない。
瞳ではなく感覚で、感情で感じるのだ。「老い」と言
う人の時間の流れを。
(それでもボクは四年も経っても、このていたらく。
‥‥情けない限りだな)
 タオルに顔を埋めるように俯く将が、そのまま机の
上に肘を付く。すると、甘い芳香が将の鼻先をくすぐ
った。それは《夢》の世界から持ち帰った《現実》。
(‥‥あぁ。ヴァニラとラム酒の芳りか)
 ジャズのリズムに乗った、ほんのひと時の時間。カ
モミールティーとバウンドケーキに懐かしさを感じな
がら、久し振りに安らいだ時間を味わった。
 そして、
(単価十円の、一人分の夢、‥‥か)
 バウンドケーキの紙袋と一緒に、夢現つのまま机の
上に置きっ放しにしていた小さな小さな瓶。その中で
クリスタルの石がキラリと光る。
「良く見ると‥‥」
 将は瓶を手に取った。
「‥‥随分と歪な形だな。まるで、ピエロの頬に描い
た涙みたいだ」
 そう呟く将の言葉が気に入らないかのように、瓶の
中の石がクルリと回り。その様子が妙に可愛らしく見
え、将は知らず微笑んでいた。頭が微妙に尖がり、お
尻が丸い半球になっている小さな石は、まるで透明の
涙の雫のように見え。
 瓶を揺らすと、コツコツと石が瓶をノックする。ま
るで、「出して」とねだられているようで。
 将は何気にコルクの蓋を開ける。この石に触れたい
と、そう思ったからだ。瓶の中から掌に取り出した石
は、小指の第一関節ほどの小さなもの。ころりと掌に
転がったそれは、ヒヤリと冷たく。
 将は両の掌で温めるように、そっと包み込み息を吹
き掛けた。すると、
「え‥‥?」
 眩いばかりの光りが、将の手の中から溢れ出す。


    2003年5月5日 to be continued


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ACT3−2

 シンと静まり返った室内。壁時計の秒を刻む音が、
いやに耳に付く。腕を組んだまま微動だにせず、卓袱
台の上に置かれた湯飲みの中の冷えた液体を、ただ黙
って見つめていた。
 暫くの間そのままでいると、将次の着替えを手にし
た紗江子が声を掛けて来る。
「あなた、将さんがお風呂から上がりましたから」
 夫に風呂を勧める紗江子に、将次は「うむ」と曖昧
な相槌を打つ。だが、一向に立ち上がる気配はない。
まるで瞑想に耽っているような夫の姿に、紗江子もま
た将次の前に腰を下ろした。
「‥‥思ったよりも、元気そうでしたわねぇ」
「‥‥‥‥」
「将さん、食事も普通に摂ってらっしゃったし。少し
だけ安心しましたわ」
「眼さえ死んでいなければな」
 穏やかな妻の物言いに反発するように、将次は強い
口調で返す。苛立だしげに紡がれた言葉には、何処か
やるせない想いが感じられた。
 紗江子の視線が、ついと宙を泳ぎ、茶箪笥の上の写
真盾に向かう。そこには幼い表情の将と、紗江子達が
写っていた。運動会の一等の旗を持っている将と、そ
んな孫を微笑ましげに抱き締めている紗江子。その傍
らでは仏頂面の将次が、無表情の中にも自慢げな表情
が読み取れて。
 紗江子の瞳が、懐かしげに細められる。
「‥‥将さんは、昔から走るのが速かった。幼稚園の
頃は、体が弱くてお休みばかりしてたのに‥‥。いつ
頃からだったかしら。この町に来て暫くして、将さん
は野山を駆け回れる程元気になって‥‥‥」
 だが、体が丈夫になり小学校入学を機に、将は実の
両親の元で暮らす事になってしまう。その事実は当時
の老夫婦を、酷く悲しませたものだ。
「小学校に上がって。それでも週末や夏休みには、必
ず遊びに来てくれていた」
 目の中に入れても痛くないほどの可愛い孫に慕われ
て、紗江子も将次も幸せだった頃。
「あの子を両親の元へ返すんじゃなかった。そう心底
後悔したのは、あの子が小学校六年生の時。理由はわ
からないけれど、‥‥夏頃から表情が少なくなって、
笑わなくなってきた。お正月に逢った頃にはもう、殆
ど‥‥‥」
 穏やかな笑みが紗江子から抜け落ち、そこにあった
のは、幾分疲れた哀しげな顔だ。紗江子は、無理に笑
っていたのだ。孫が脚を引き摺る姿を見て、痛まない
胸など在りはしない。その脚はもう、これ以上治りよ
うがないのだと、思う度に張り裂けんばかりの想いだ
った。だが、それを面には決して出さない。
 紗江子が、真っ直ぐに夫を見つめて言う。
「一番辛くて大変なのは、将さん本人ですのよ」
 辛くて哀しいのは、紗江子だけではないのだ。やっ
ている当人が、一番やり切れないに決まっている。だ
から紗江子は穏やかに微笑み、やさしい気持ちで見守
る事しか出来なかった。
 その事を些か咎める口調で将次に訴える紗江子に、
夫は温くなった茶を勢い良く煽った。カタンと音を立
てて湯飲みを卓袱台に置き、徐に立ち上がる。
「わかっておるわ」
 言い捨てるように呟いて、将次は浴室へ向かう。
 そんな夫の後ろ姿に小さく吐息して、紗江子もまた
着替えを置いて来る為に後に続いた。


 そうして、都築家の夜は静かに更けて行く。


 ‥‥いや。静かでない場所はある。それは、現在も
進行中の「とんでもない状態」だった。



           *



 光りの粒子が、まるで煌く洪水のように両の手の中
から溢れ出す。眩いばかりの視界の中で、だが瞳を見
張るばかりの不思議が今、将の目の前に在った。


 ふわりと舞う一対の翼。
 若葉が芽吹くように、
 グンと伸びやかに伸ばされる四肢。
 長い銀糸が、光りの粒子の中で煌いて。

 刻まれる微笑と慈悲深い眼差しが、
 見るものを魅了する。


「これ、‥は、」
 息を飲んだ。将の目の前には、いや、その手の中に
は今、小さな小さな人の形をした生き物が、ニコニコ
と笑顔を振り撒いて翼をパタパタさせて存在をアピー
ルしていたのだから。
「‥‥‥‥」
 鼻からずり落ち掛けている眼鏡も厭わず、暫し無言
で凝視して。それから将は、
「これは、夢だ」
 キッパリと断言するように呟いて、将は徐に手の中
のソレを放り出す。するとそれは、
《キャー!》
 小さな悲鳴を上げた。だが、将は意に介す素振りも
見せず、もそもそと布団の中に潜り込んでしまう。
 所謂処の「現実逃避」と言う奴だ。
 眠ればいつかは夢から覚めるだろうと、安易だが道
理な発想の元、眼鏡をキチンと枕の脇に外し置き安眠
に走ろうとする将に、だが、ソレが必死の抗議の声を
上げる。
《ひどいぃ〜。夢じゃないですってばぁ。起きて下さ
いよぉ、ねぇってばぁ〜》
 放り出されてポテンと畳の上に落ちてしまったもの
の、それでもめげずに将に纏わり付くソレは、まるで
小さな小さな《妖精》のようだ。大きな翼でヨタヨタ
と、将の布団の上に舞い降りる。
《御主人様ってばぁ‥‥》
 半べそを掻きながら掛け布団に取り縋り、小さな子
供がダダを捏ねるように布団を揺する。それを繰り返
す事、およそ15分。余りに鬱陶しかったのか、将が
眉間にシワを寄せたまま、むくりと起き上がり。そし
て視力低下の著しい裸眼を不機嫌そうに眇めながら、
将が起きた拍子に布団の上から転げ落ちたモノを見つ
めて言った。
「キミが何者なのか、三秒数える間に十文字以内で答
えろ」
《え? え? え?》
「1、2、3。はい、終わり」
《えー!?》
「じゃ、そう言う事で」
 無慈悲に告げて再び布団の中に入ろうとする将に、
だが小さな生き物は叫んだ。
《私は夢叶人です!》
 将のパジャマのシャツにペッタリと張り付いて必死
の様相で言い募るソレに、将の動きが止まる。 
「‥‥ゆめ、かなえびと?」
《そうです! 夢叶人です!》
 これ以上無視されるのはイヤだと言わんばかりに、
風を切る勢いで首を縦に振るソレは、自分を「夢叶人」
と称した。
《グラン・パに聞いたでしょう? 私は、あなたの夢
を叶える為に此処にいるのです》
 開襟パジャマの胸元にしがみ付いて説得を試みてい
る自称・夢叶人に、将は昼間の出来事を思い出す。
 あの場所で過ごしたのは、ほんの一時間程度だと思
っていた。それなのに、朝の内に辿り着いたにも拘ら
ず、将が祖父・将次に声を掛けられたのは夕刻迫る頃
だった。

 虹の端の聳え立つ、不思議な場所。 

(あの老人は、グラン・パと言うのか。‥まぁ、その
名の通り「おじいさん(グランパ)」だけどね)
 耳障りの好いジャズの流れる懐かしさを覚える空間
で、居心地の好い時間を共有した気さくな《グラン・
パ》。彼の言葉を、将は思い出す。


《その瓶の中にはの、魔法の石が入っておる。虹色の
魔法の石は、夢の石。その石一つで、一人分の夢を叶
えてくれる。赤い石には、赤い石の価値に見合うだけ
の夢を。青い石には、青い石の価値に見合うだけの夢
を。その石の持ち主は、石に願う事が出来る》


 老人の言葉を信じるならば、目の前にいるコレは魔
法の石の化身と言う事なのだろうと、将は夢叶人を見
つめた。すると、色素の薄い真摯な瞳に見つめられて
か、将を見上げていた小さな顔がポッと朱に染まる。
 将は言った。
「キミは、僕の夢を叶えてくれるのか?」
《叶えます! 叶えますとも! それが私の存在する
理由なのだから!》
 白い翼を翻し、夢叶人の小さな瞳が将の目線の高さ
になって訴え続ける。
《私は夢叶人。私の存在価値全部で、あなたの夢を叶
える事が役目なのです》
 ふわりふわりと浮きながら囁く夢叶人に、将はそっ
と手を差し出した。その上に、躊躇う事無く舞い降り
た小さな生き物のアクアマリンのように澄んだ蒼い瞳
を見つめながら将は、まるで聖書の言葉を厳粛な面持
ちで紡ぐように口を開く。
「それなら、僕の夢はたった一つだ」
 一呼吸置いて、将は唯一無二の願いを、言いたくて、
言いたくて、ずっと言えなかった言葉を紡ぐ。
「僕は、走りたい」
 それは何者にも替え難い、たった一つの願い。傷だ
らけの精神に抱え続けてきた、想い。
「土を蹴って、風になりたい」
 切望してやまなかった願いは、だが口にする事への
未練がましさと虚しさから、躊躇い、飲み込み続けた
言葉。
「僕は風と、一つになりたい」
 いつだって風になれた自分から、風が無慈悲に別れ
を告げたあの瞬間を、どれだけ呪った事だろう。我が
身の不幸を口にする事さえ虚しくて。虚しいのに、や
り切れなさは消えなくて。
「僕は、僕のこの二本の脚で、土を蹴って風になりた
い」
 自由に動かなくなった脚のもどかしさに、どれ程の
涙を流し、涸らし、精神を狂わせた事だろう。
 自分の全部を、絶対的に依存していたものが消えた
瞬間。それは言葉では言い尽くせないほどの絶望感と
孤独感だ。
「走る事さえ出来れば、僕は何も‥、」
《それは無理なんです》
 何も要らないと、そう紡ごうとした将の言葉を夢叶
人がさらう。
「‥‥‥え?」
《私のレベルでは、その夢は叶えられません》
 瞬間、周囲の気温が一気に下降した。
「何だって?」
 次第に目付きの悪くなって行く将に、その手の中の
小さなものに怯えが走り。
《だ、だってぇ、だってぇ、魔法と言えども私のレベ
ルにも限界と言うものがぁ〜‥》
 アクアマリンの瞳を湖のように潤ませて弁解に走る
夢叶人に、だが将の視線は只管白く、鳶色の瞳は物騒
になるばかりだ。
「なるほど。キミのレベルは十円分と言うわけか」
《じ‥十円だなんて、あんまりですぅ〜‥》
「事実、キミは十円で売られていたじゃないか」
《そ、そんなの‥っ》
「悪いが、僕の夢は十円などと言うほど安くはない」
 将は、手の中で泣き崩れている小さな生き物を、む
んずと掴んだ。そして、
「返品する」
《えっ!?》
 そのまま夢叶人を小瓶の中に突っ込んでしまった。
《うわーん! 出して下さいってばぁ〜!》
 不思議な事に夢叶人の小さな体は、小瓶の中に入れ
てしまうと再び石の姿になってしまう。固い身になっ
った夢叶人は、コトリと瓶の中で向き質な音を立てた。
 その様子を不思議に思いながらも、だが将はコルク
の蓋で封じる。もう、ソレから《声》が聴こえる事は
なくなった。


 だが‥‥‥

      2003年5月8日 to be continued


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ACT3−3


 コポ‥コポコポコポ‥‥‥

 プク‥プククククク‥‥‥



 水の中で呼吸をしているような妙な音は、部屋の明
かりを消し、再び寝入ろうとしていた将の邪魔をする
のに充分過ぎる代物だった。しかもそれは、哀しげで
切なげに泣いているような雰囲気を恨めしげに漂わせ
ているものだから、堪ったものではない。
「‥‥‥ったく! 何て鬱陶しいヤツなんだ!」
 頭まで被っていた布団を勢い良く剥いで、将は不自
由な脚でズカズカと、机の上に無造作に置いた小瓶に
近付いて行く。その中は、今にも溢れんばかりの涙の
海だった。涙の形をした石が、本当に泣いているよう
に見え。
(‥‥いや。どうやら本当に泣いているらしいな。何
て面倒な石ころだ)
 そんな冷めた事を思いながらコルクの蓋を再び開け
ると、ほんのりとヴァニラのような甘い芳りがする。
小瓶の中の水に何気に指を付けて嘗めて見ると、
(‥‥しょっぱい。やっぱりコレは涙か)
 甘いヴァニラの芳りのする涙に、将は複雑な面持ち
になる。そして思うのだ。
 やっぱり面倒なヤツだ、と。
「いい加減に泣き止まないか。僕は、穏やかに安眠し
たいんだ。キミが泣いていると、僕が悪いみたいじゃ
ないか」


 だって、悪いもん。


 そう訴えるように瓶の中の涙の湖が、コポコポと泡
を立てて将を批難する。その様子に更に閉口して「捨
ててやる」と密かに心の中で思う将だった。
「ほら、出ておいで」
 極力声音を抑えて言ってみるが、石は出て来る気配
がない。将は作戦変更を余儀なくされた。
「お腹は空かないか? 木の実のバウンドケーキがあ
るんだが、」
 エサで釣ってみようと、試しに言ってみる。すると、
瓶の中の石がプクプクと、ゆっくりと浮上して来るで
はないか。
(案外、単純だな。エサで釣れたか)
 そんな将の目の前で石が瓶の口に辿り着くと、それ
は幻想的な不思議な光景を紡ぎ出す。


 暖かく穏やかな光りの一瞬の瞬き
 涙のような小石が閃光を放つと、
 それは次第に形を変えて行った。
 しなやかな四肢が伸びやかに現れ、
 銀色の粒子を散りばめる長い髪が風に舞う
 大きな純白の翼がふわりと宙に広がると、

 それはまるで、宗教画の世界


《ケーキ!》
 両の手を力いっぱい伸ばされ催促され。綺麗だと、
思ってしまった容貌とのギャップに混乱半分、呆れ半
分。それでも、バウンドケーキを一切れ、紙袋から取
り出して与えると、夢叶人は両手一杯に抱え美味しそ
うに頬張り始めた。
「美味い?」
《はい! グラン・パのケーキは、いつだって最高に
美味しいです♪》
 頬にケーキのカスを付けながら嬉しそうに食べてい
るソレに、将は改めて椅子に座り直しながら訊ねる。
「キミは、僕の夢を叶えるのか?」
《私は‥‥、》
 半分以上食べてしまったケーキから一旦顔を上げ、
ソレは口篭る。だが、すぐに強い口調で応えた。
《夢叶人は、必ず御主人様の夢を叶えなければならな
いのです》
 それは、あの老人も言っていた事だった。
 妖精の世界も随分と世知辛いものなのだなと、リア
リズムな思考を廻らしながら、夢叶人と言うソレがケ
ーキを食べているのを何気に見つめていた。
 食べ終わる頃合を見計らって、呟くように将が訊く。
「キミは、僕の願いを叶えるんだな」
《はい。私の価値観全部で!》
 宣言するソレのケーキのカスの付いた頬を、ティッ
シュで拭いてやりながら将は続けた。
「じゃぁ、大きくなれるか?」
《巨人になるのですか? 五メートルぐらいなら、何
とか‥‥》
「いや、そんなに大きくなられても家が壊れるだけだ
から。一般の平均的な人間サイズでいい」
《お安い御用ですとも♪》
 言うや否や、夢叶人は将の前で変化した。小さな体
が光りの粒子に包まれて。そのまま宙に舞い上がり。
次第に容積を増して行くそれは、人の姿を模って行く。
 光りの群れが消える頃には、まさに何処からどう見
ても人間の姿をした夢叶人が立っていた。その鄙にも
稀な美麗極まりない容貌さえ抜かせば、非の打ち所の
ない《人》である。
《如何です?》
 些か得意げに胸を張るソレに、将もまた椅子から立
ち上がる。自分よりも頭一つ分高くなっている夢叶人
に負けん気の焔を燃やしながら。
「じゃ、そこに座って」
《え? 何処?》
「そこ」
 きょろきょろする夢叶人の腕を取り、強引に座らせ
た場所は。
《え? 御主人様!?》
「うん、丁度良い枕だ。お祖母さんに用意して貰った
枕はちょっと合わなかったから良かった」
 そう言って夢叶人の膝枕の元、しっかりとお休みモ
ードに入っていたりする。
「じゃ、おやすみ」
《あ、あの‥、》
 布団の枕の位置に座らされてしまった夢叶人は、こ
の後、微動だにする事も許されず、御主人様に膝枕を
提供し続ける破目となったのである。
《わ、私は朝までずっとこの格好なんですか!?》
「あ、電気も魔法とやらで消しておいて」
《御主人様ぁ!?》
 そうして、夢叶人の驚愕と戸惑いの慟哭が聴こえな
いかのように、将は夢叶人の膝の上で穏やかな寝息を
立て始めたのである。

《御主人様あぁぁぁぁ‥っ》



 慌しかった今日と言う一日が、もうすぐ終わろうと
している。都心よりも遥かに近い星の海に、小さな煌
きが一つ、流れた。

     2003年5月10日 to be continued


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